みてるもの

人が見てるもの、見えてるものは人によって、状況によって、色々によって(ナニ)違う。
そんで自分がみてるものが‘まず’中心になるのは仕方がない。そりゃ自分が存在しているということだから。


 自分のみえているものが全て、そしてそれが正義。
自己暗示とか、何か理由があるでもなく常にそんな状態になっている人はほぼ存在しないと考えていいはず。それは他人という存在を認識できている人間は無意識でも影響があるから。どんなに自分からでも他人からでも自己中だとか、他人が見えていないとか、なんと言われようが。


ああ、全てが何かとか正義が何かとそういう話も絡むけど、
その時点も既におかしいってことも言えるけどね。


だがね、他の人からみて明らかに
 あいつは自分のみてるものが全てだと思っているな。
とか、
 正しいと思っているな。
って思われる人や状況が存在するのは事実。
結局今の俺にも言えることだし。それを言い出したら矛盾の無限ループ。


ただ、それを第一段階、1回目のループで認識ができている人ではありたいし、
他の人がそういう状況にあるのなら例えそれが自分の偏った正義であり、逆に注意される側に逆戻りしたとしても、それを認識させてあげなきゃなと思う。


よーするに、不可能ではあるのだが自分がみているものが全てじゃないという事を改めて理解し、他の人にもそれを認識させるようにありたい。例えどう思われてもということだ。
多くの場合そういうことをしようとするとその人はその人自体が否定されてるように思うだろうから、単純には不快に思う事が多いだろうがね。
矛盾だらけだがな。


せめて大切だと考える人にはそうありたいなと思う事が、最近多いなと思っただけ。
更に要すると、どーでもいい人には元々口出ししないし、大切な人にはどうなろうとしっかり意見を言おうって話+相手を自分からじゃなく他人から見て冷静にさせる話・・・ってこれだと約しすぎててまた意味が違うなww


あー久々に意味不明で、なんにもまとめてない書き殴っただけの自分しか解読不能かと思える戯言を書いたなww
これでこそ日記、戯言とも言えるか。